2011年12月5日月曜日

男について

text by IINA

京都のたっちゃん(出演の今村達紀)に携帯メールでイメージを伝えたり、感想聞いたり、そんな感じの作業。
京都での初演が終わって、「この物語の男って誰だ?」ってことになったわけ。
たっちゃんにこの映画観ておいてー、とだだだっとDVDを郵送。

「アジール」というフィクションには、男の影があって、なんとかそこを考えていきたい。

「高尾」に出てくる島田重三郎ってのは、藩主だったという話と、浪人ものだったという話とか、高尾が殺されてから仏門を叩き坊主になったという話とか、いろいろある。
そもそもの物語が伝説であるから、いろんな時代のいろんな解釈がされている。
それがいい。

しかしですよ、吉原に通って、花魁の高尾太夫と契りまで交わして、最後の最後で守れないという、このダメさ。
分かるよ、分かる。
島田は遊郭では一見男らしく「オレがお前を一生面倒みてやる」とか「遊女という人形のような扱いじゃなくて、オレがお前を女にしてやる」「いまは金がないけど、いずれはちゃんとして、一軒家買って、お前には不自由はさせないぜ、今はまだ金はないけど、いや、金なんか無くたっていいじゃないか」みたいなかっこいいこと言って、高尾太夫も花魁っていうポジションからすると、もはやそんなことストレートに「お前を幸せにしてやる!黙ってオレについてこい!」って言ってくれる男なんていないわけで、そんな島田にほろっと来てしまって、もう駆け落ち、じゃないけど、すべて捨ててひっそりとこの男と暮らしていきたい、質素に素朴にでもいいから、なんていう夢をみていたんじゃないか?

しかし、そんな男に限って、大事な人を守れないもんなんだよ、いざというときに。
ハリウッド映画だったら、高尾太夫が川に沈められる!ってギリギリのときに、かっこよく島田が登場して、ばばーんと高尾を助け出し、伊達綱宗やら何千という家来たちも叩き切って、、、というマッチョストーリーでハッピーエンドで、(この手のハリウッド映画の場合、なぜか主人公はニコラス・ケイジ)みたいなことなんだけど、島田重三郎は、高尾太夫が川に沈められるのを橋の上からガヤガヤと眺めてる野次馬に混じって「ううううー、ぐぐぐぐー、ぎぎぎぎぎー」ってなって、過呼吸で倒れて、野次馬に「おーい、兄ちゃんが倒れたぞー、運んでやれー」なんて言われて、助けだせないウダツの上がらないオレを許してくれ、高尾!とか思って、その後、ひっそりと山にこもって、自虐的に坊主になって、一見精神力がありそうな眼力を持っているものの、内心は一生くよくよと女々しく、蒲団に入ると声を殺して悔し泣きをしながら暮らしているようなそんな男だったんじゃないか。

すべて想像だけど。

美化する、という作業は、物語を官能的にするけど、男も女もそんなに凛としてばかりではない。
正しい判断が常に出来るわけでもない。
くよくよ、イジイジと、なんでもかんでも自分のせいにしながら生きているんだよ、男というのは。人というのは。