2011年11月7日月曜日

ネオアングラ

続いてですが、「アジール」裏読み話、vol.2です。

明日から1週間、ようやく、モウレツに私はアジール一色の生活をしようと心に誓っているので、もう4時だけどblogしよっと。

えーお題はneoアングラ。
これは、飯名さんから突然、neoアングラ宣言がきたわけですが、
言いえて妙、な言葉ですね。
知らなかったというか、使ったことなかったです。
これネット検索したんですが、若者の劇団で自分たちの活動を解説するときに使っていました。
「わかりやすいおしゃれなアングラ」だそうです。
なんかピンとくるようで、こない解説ですがね。

特に、iinaさんとアングラというのが、どうもこうなんかアレでしたが、飯名さんに言われて考えてみると、確かに今回のアジールの要素、色あい、作品のモチーフ、テーマ、まさに見ようによっては、アングラ的要素が満載。いや、そのものとも確かに言えるか。
唐十郎の「糸姫」とか、根津甚八の若いチンピラ風アンチャンが着ていそうなジャンパー姿の男とか、安いバー勤めの訳有りホステス李礼仙=厚化粧した映画の中の寺田みさこさんとか、そういえば、寺山修司風の西松さんのセリフとか。。


いやね、今回のもうひとつの裏ミッション。企画意図としては、「作」がある作品をつくりたい、ということがありました。これは、なんというか、分かりにくいマイナーな話なのかもしれませんが、わたしが最近、特にダンス作品をみて物足りなさを感じるのは、”作、作家性”が薄いなということ。

ダンサー個々の特性(特に身体の)を活かしたダンスや、なんとなく2-3行でいいきれるテーマなどをいい雰囲気に、あるいは、楽しく、時には悲しくデザインした作品ーなるものが多いなあと。それはそれで、ひとつの方法なのかもしれないけれど、鑑賞後の客席でどういう感想を持てばよいのか、わからず戸惑ってしまう回数が増えたなあ、というのが正直なところ。

徹底的にこれがいいたいのだ、こういう話しなのだ、という作品がもっと増えていいと思うし、そもそも、あえて言えば、役に立つこともないと言える舞台芸術作品、必然がない作品は意味を成さないのだから。
こんな作品について、少なくとも同じ方向を持った作家と、作品制作を時間をかけて取り組みたかったというのも、アジール制作にいたるひとつの本音話。

ネオアングラから話がそれたようですが、どうしてどっこいアングラはそういう意味で「はっきりと」した世界が在り、しかもそれが、王道ではなく、「アングラかー」という日陰の存在というか、否定的なニュアンスで1990年代くらいまで使われていた。なので、やるっきゃないじゃん、という所謂、世捨て人というか、あきらかに外れた人生を選ぶ覚悟がないと、やっていけない世界だったのだ。最近、このはっきりしたものへの飢えや、豊かになった時代の名残もあり、若者世代がアングラを楽しむ、懐かしむ、ということになったのか。アングラの大家、唐十郎や寺山修司が、大成したということもあるのだろうか。と、まさに筋金入りのアングラを地でいく世代の私は、ふと、思いめぐらしてしまう。

というわけで、アジールの筆者である飯名さんは、これまた遅れてきた全共闘みたいなとこがあるわけですが(笑)、時々、実年齢を忘れて会話してしまうほどです。


飯名さんは、その才能を実力以上に評価されずにこの世を去った映画監督:神代辰巳にひどく魅かれ、共感を呼ぶところが多々あるようで、今回のアジールを制作するにあたり、神代監督の「もどり川」の世界観に魅入ったとのこと。みとめられていないから、DVDとかになってない、そうです。
80年代NHKで年に2-3回放送していた<NHKドラマスペシャル>と題して、らしからぬアングラドラマがありました。状況劇場ファンだった私も、このたまに放送するドラマをリアルにみていました。
唐十郎作の「匂いガラス」や、「もどり橋」脚本:市川森一・出演:根津甚八、樋口可南子など、飯名さんからおしえてもらったyoutubeをついつい朝まで見入ってしまった。

これらに、共通して根底に流れている世界は、どうしようもない暗さ、悲しさ、救いがないように思える終わりのない日々の暮らし。どこか何者に追われているような感覚。ー何故か懐かしくて、切ない、人の思いが折り重なっていくような、そんな世界。

今回の作品「アジール=避難所」とは、現在の社会にはあるようで、ないようで。でも、あってほしいと願う思うもの。江戸時代に確かにあったといわれる2つの縁切り寺。本当にいま、それがあったなら、駆け込みたくなる女性、もしかしたら、男性は多いだろうか。

同時代の作家・飯名尚人が、「アジール」という題材で人の悲しさ、おかしさ、人間を描く作品ができればいいなあ。ダンス、江戸唄、映画からなるオアングラというフィルターを通して。